|
|

|
 |
|
〇 1880 |
軍人の子としてダグラス・マッカーサー誕生。 |
|
○ 1898 |
ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校に入学 |
|
○ 1903 |
軍士官学校史上抜群の成績でに同校卒業。卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。 |
|
○ 1905 |
父が在日アメリカ大使館付武官となり、彼も副官として日本で勤務した。
明治天皇にも拝謁している。 |
|
○ 1914〜
1918 |
第一次世界大戦。1918 アメリカ参戦。マッカーサーも参戦する。
戦後、最年少で少将となり、、士官学校の校長に就いた(最年少)。 |
|
○ 1928 |
アムステルダムオリンピックのアメリカ選手団長 |
|
○ 1930 |
アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任。 |
|
○ 1935 |
参謀総長を退任し、フィリピン軍の軍事顧問に就任(大将で退官)。 |
|
○ 1941 |
フィリピンで現役に復帰し、アメリカ極東軍司令官。 |
| 〇 1941 |
12月8日太平洋戦争勃発(日本真珠湾攻撃)。 |
| ○ 1942 |
フィリピンに上陸した日本軍の猛攻の前に、ついに部下を見捨て、妻子と共にフィリピンを脱出し、オーストラリアに逃げた。
この行為はどう見ても「敵前逃亡」である。「敵前逃亡」は軍隊における最高の重罪で、当然銃殺刑に相当する。 ただし、これは大統領の命令によることであって、
マ元帥の意思ではない。しかし、事情はどうあれ「軍人として最大の屈辱」であり、彼の輝かしい軍歴の中で最大の汚点である。
そのときの彼の言った言葉「 I shall return 」は有名である。この意味は通常訳される「私は帰ってくるだろう」ではなく、これは自己の意思を表す「I will return 」(私は帰ってくるぞ)
や「I must return」(私は帰らねばならない)よりも更に強い、神の意思まで加えた(必ず帰るぞ)という意味である。
その後マ元帥は、イギリス軍も傘下に治めた南西太平洋方面の連合軍総司令官に就任する。
その後の鬼気迫る作戦指揮は、この屈辱感の裏返しであろうか。
|
|
○ 1945 |
一般市民を目標にした東京大空襲(3月10日)。B-29爆撃機約300機による焼夷弾爆撃(38万発)、消失面積約40万平方キロメートル(東京都市部の1/3)、消失家屋27万戸以上、 死傷者8万人以上。これはマ元帥の指揮下で行われた作戦であり、前記屈辱感の裏返し、復讐心であろうか。 |
|
|
広島に原爆投下(8月6日 死者約14万人)。 長崎に原爆投下(8月9日 死者7万人 )。
マ元帥は、原爆肯定論者である。この原爆投下にどの程度かかわっていたのであろうか? |
|
|
ソ連軍、日本宣戦布告し、満州地域を攻撃(8月 8日)。当時日ソ間に「日ソ不可侵条約」が存在し、しかも有効期間内であった。これは明らかに条約違反である。 |
|
|
ポツダム宣言受託(
8月15日、終戦)。 |
|
|
マ元帥、専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着(8月30日)、以後、連合国軍最高司令官として日本占領政策を指導した。 |
|
〇 1946 |
マ元帥が日本国憲法作成の大綱をGHQに指示
(2月 3日)。GHQ内に極秘のプロジェクトチームを作り、憲法作成に着手。指示から完成まで10日足らず(実質、1週間程度) |
|
|
日本国政府に提示(2月13日)。GHQホイットニーが、それまでの政府案を拒否し、マッカーサー草案(英文)を吉田外相(後に首相)に手交する。 |
|
|
日本政府が「憲法改正草案要綱」を発表(3月 6日)。
それはマッカーサー草案の日本語訳であったが、政府案(政府が作成した)として発表。
以後、議会での審議が始まるが、日本共産党はこの憲法に反対であった。それは日本占領下にあって、自由な発言は出来なかったが、これが「マッカーサー憲法」であることを見抜いていたからであろう。一般国民は完全に「政府案」だと思って支持していたし、また新聞もGHQの指導で「原案」の詮索など出来ず、絶対支持を表明していた。その他、5月から「東京裁判」(極東国際軍事裁判)も始まった。勿論、これも自由な報道など出来なかった。
|
|
|
日本国憲法公布(11月 3日)
|
|
〇 1947 |
日本国憲法施行(5月3日)
|
|
〇 1949 |
中華人民共和国成立(10月 1日)
|
|
〇 1950 |
朝鮮戦争勃発
(6月15日)
警察予備隊発足(自衛隊の前身)
レッドパージ始まる(レッドパージとは、
共産党党員およびそのシンパを公職から追放する指令である。それは公職つまり公務員、教職員は勿論、新聞社、一般企業にまで及んだ。)
レッドパージ更に強まる。
共産党機関紙「アカハタ」発刊停止。
共産党幹部追放(共産党非合法化、幹部地下に潜行)
以上のレッドパージ関連事項は、勿論すべてマ元帥の指令によるものである。当時の新聞は、これを批判できなかった。また憲法違反であることも確実である。
一連のレッドパージは、「マ元帥が考える日本の平和のためにやった行為」と考えられる。
マ元帥と日本共産党は、不倶戴天の敵である筈である。
中国軍、チベット侵略開始(10月)
|
|
〇 1951 |
マ元帥、アメリカ大統領トルーマンよりすべての職を罷免される(4月11日)。
朝鮮戦争を限定局地戦に止(とど)めようとする大統領に対して、中国本土空爆を主張し、中国、ソ連
との戦争まで否定しないマ元帥。大統領の指令に従わないマ元帥に対して、罷免するしかなかった。
その後マ元帥は、米国上院で「日本人は、12歳の少年程度」と発言し、日本人から反発された(ただし、善意の解釈も一部ある)。 |
|
|
|
|
朝鮮戦争について別枠で記述 |
朝鮮戦争始まる(1950.06.15)
(当時北朝鮮と韓国の軍事力は北朝鮮はソ連製戦車150台に対して、韓国側戦車0台という絶対的な軍事格差があった。米軍は軍事顧問程度)
マ元帥航空機により、戦場視察。
米国、韓国支援を決意。しかし米軍の支援が追いつかず、北朝鮮の猛攻により、韓国軍・米軍 釜山の一角に追い詰められる
(1950.09)。
米軍反撃のため、陸海軍統合の仁川上陸作戦実施(1950.09.15)。 この「仁川」という場所での上陸作戦について、海軍は絶対反対。陸軍内でもマ元帥以外、
仁川は反対であった。
只一人マ元帥のみが「仁川上陸」に固執し、誰も国連軍総司令官そして連合軍総司令官マ元帥を抑えられず、仁川上陸作戦は実施された。結果は、大成功であった。
そして偉くなり過ぎたマ元帥は、作戦の指揮を執る立場になく、小さな上陸用舟艇に乗り、最前線で仁川上陸作戦を見学した。
太平洋上のウェーキ島で、トルーマン・マッカーサー会談(1950.10)。そこでマ元帥は、「中国軍介入の危険性はほとんどない。仮にあったとしても大した事はない」と述べたといわれている。
京城を奪還した韓国軍・米軍は、更に北に兵を進め中国国境近くまで迫った時、中国軍の介入を受ける(1995.10)。
「人海戦術」による中国軍は、怒涛の勢いで首都京城を攻略する(1951.01)。更に南下を続ける。
今度は反撃に転じた韓国軍・米軍は、再度京城を奪還する(1951.03)。
マ元帥、アメリカ大統領トルーマンよりすべての職を罷免される(1951.04.11)。
その後38度戦付近で、膠着状態に陥り、休戦協定を結ぶ(1953..07)。 |